<春のZAN・PARA >

2003年3月28日(金) すみだ生涯学習センターにて
1:00       開場            
1:15〜2:15 「カルメン夜想曲」     
2:30〜3:00 「ヤマナシ」         
3:15〜5:15 「広島に原爆を落とす日」

        〈参加高>足立、白鴎、小松川、東、淵江、上野、日大一、科学技術、葛飾野、ほか
5:30〜6:30 「彦馬が行く」        
6:45〜8:00 「藪原検校」        


高松周平くんのことからそれぞれのことへ、
 「高松くんがおなかをすかして、バッタを取るところを見てみたい」と後飯塚さんが言い出した。いつもいつもこの人の言うことは、変わっていて面白い。どこでどう繋がるのかわからないけれど、とにかくやってみようと思い演出した。結果男たち全員がバッタを取るはめになり、そのバッタを取る姿自体が、バッタに見えてきた。そこに荒涼とした朝鮮台地が見えた時、ああ、後飯塚さんの言ったことはこういうことだったのかと、思った。
 さて、話を元に戻すと、最初にバッタを取るシーンで、、高松くんに、いろんな風にバッタを取ってくれと注文をした。それは、妹であるリーランを励ますためであり、喜ばすためである。彼は、練習当初はあまり上手にできなかった。というより、その感覚さえ身に着けていなかった。でも、最終的には、いろんな方法で、バッタを取ることを見せてくれた。けな気であった。その間2週間くらいあるが、私は何も声をかけていない。予想できることは、黙々と練習の合間を縫って、地道に見つけ、身に着けたのだろうと思う。1度言っておけば何とか見つけてきてくれるだろうという、彼への信頼である。彼の記す「タコ部屋」日記にも、腹切りを袖で何度も練習したというくだりがあった。ただものではない。
 高松くんにはじめて会ったのは、1年半ちょい前で、そのときは平川舞さんと組んで「売春捜査官」の部長(平川)と熊田(高松)の冒頭のくだりをやった。とにかく、ぼろぼろだった。棒読みもいいとこで、セリフも平川さんに届かず平川さんが大苦戦しており、助けを求めてきた。私は高松くんに「とにかく、倒されても、倒されても必死に立ち上がってセリフをしゃべる。そのことだけを考えてやってごらん」と言った。平川さんに倒される、と立ち上がれない。立ち上がるとセリフがいえなくなる。そんな高松くんを見て、逆上した平川さんは「このコケシ野郎!!」と、思わず即興でセリフを飛ばした。これが的を得ていて面白かった。
 そんな高松くんが、広島でシンを取ることになった。彼は決して器用なほうではない。でも言われたことを何とかしようと懸命に繰り返す。速度は、ゆっくりだけど確実に力になってゆく。付け焼刃ではないために、はがれない。懸命だから嘘がない。だからどんどん強くなってゆく。
 ZAN・PARAのこの集まりは、雑多なものを丸呑みにする大きな力があるように思う。その中に高松くんもいて、他のみんなもいる。みんながバッタになると誰が誰だかわからなくなる。沿いれぞれが、丸裸の赤ん坊になったような状態になる。それぞれが触れ合い、強くなる。こんな大人数で芝居をやることなど、生涯もうないだらう。とすれば、こうやって、強くなったひとりひとりに出会えたことは、大きな大きな財産だと思う。『広島〜』をともに造ったことを、大きな力にしてください。

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